光徳に見出された名刀

南北朝時代の越中で腕をふるった江義弘は、『享保名物帳』で天下三作に数えられているものの、室町初期までの『銘尽』(めいづくし)(観仰日院本)や『長享銘尽』といった刀剣告はその名が明らかになっていませんでした。それらの名刀は室町中期になってようやく、『能阿弥本』 『往昔抄』などに登場してきます。
その当時、一般的にはその名はほとんど知られていなかったと思われます。しかしながら、知名度がなかったにもかかわらず、それでも『享保名物帳』で藤四郎・正宗と同格に許価されたのはなぜなのでしょうか。
『享保名物帳』の編纂を任された本阿弥家の光徳は、本阿弥家の中興の相として名高かった9代光徳の鑑定限を信頼し、光徳の一許制を大いに参考にしていたと考えられています。
この本阿弥光徳こそが、江義弘の品格を見抜いて正宗などの名刀と同じ評価を与えたのです。本阿弥光徳に見出されるまでは、無名だったわけですが、その後名刀としての地位を得て行くことになりました。

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